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parttime job

 この1週間はちょっと新鮮なアルバイトウイークでした。
そういえば、この阿蘇に移住してからの4年間というのものはメリーモントの建設に集中してきていたので、外でお金を頂くような仕事は一切していませんでした。
この時期においても屋根しごとに忙しくて、本当は自宅建設に没頭すべき時なのですが、この地でできた大切な仲間にアルバイトの仕事を頼まれて、半分仕方なく引き受けたのでした。

 その仕事というのが、「大麦の収穫」。
初め私は大麦と聞いて、ビールの原料かな、と思ったのですが、現場での説明を聞いてそれが「青汁」の原料であることがわかりました。現場は自宅から30分ほどのところにある高原地帯。そこに大麦畑が点在しています。大麦といっても青汁の原料ですから麦の穂はまだありません。葉だけが40センチほど伸びています。一見すると牧草地のようです。その葉をコンバインで刈り取りながら直径1メートルほどの大きい袋にその葉を詰めていきます。その袋は一杯になると重さ250kgほどにもなります。こんどはそれをトラクターで道際まで運び、ユニックを使って2トントラックに積んでいきます。トラックはこの袋を満載し、1時間ほど離れた青汁工場まで運んでいきます。

 私の役割はユニックの操作。ユニックというのはクレーン付きトラックのこと。今までユンボ(ショベルカー)の操作は慣れていましたが、ユニックは初めて。でも、今回の大麦刈り取り作業メンバーの中には、ユニックの経験者がいないということで、みずから手をあげて「やらせてください」とお願いしたのでした。ユニックの操作ができれば今後、薪の運搬や建物の組み上げなど、いろんなところで役に立つのです。

 今回の刈り取り作業は2日間で終わりました。新鮮だったのは仕事の内容だけでなく、新しい出会いでした。大麦畑のオーナーさんは隣村に住んで4年目になるオガタさん。オガタさんは人を受け入れる器の広い人。これまではひきこもりの若者を受け入れる施設を手作りで建て、今住んでいる山間部の地に移住してからは、やはり手作りで小さな牧場のような空間を作っています。そこにはオガタさんのほか、何人もの居候さんが共同生活しています。素敵なのは、動ける人もそうでない人もその存在を自然に認め合ってそこに居るということ。他の人と同じように働けないからといって否定されるわけではなく。オガタさんは大麦の仕事をメインにして生活のためのお金を稼ぎ、彼らを養っています。

 そこには私が目指しているメリーモントの大切なエッセンスのひとつが具現化されていました。
元気な人もそうでない人も、年寄りも若者も、人間も動物も、どんな命もそこに居ることが許される場所。
私は今、そんな空間を造るのに日々を費やしていますが、実はいちばん大切なのはそこのオーナーの器なんですよね。その器の大きさがまだまだ足りないことを思いながらも今回の出会いにまたハッピーになれたのでした。
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ブログの更新がちょっとご無沙汰してしまいました。

たくさん書きたいことがあるのですが、まずはお米の収穫のことから。

我が家では4年前にここへ移住してから、手作業でのお米づくりを家族で学習しています。
春に家族みんなで手植えした稲はすくすくと大きく育ち、今収穫の時を迎えました。
うちのこどもたちもいつも田んぼの作業に参加します。学校に通っている長女も、田んぼの作業の日は堂々と学校を休んで毎回参加します。主食であるお米を自分たちの労働によってつくりだす、というのはとっても大切なことです。日々のお米を食べるのはそんなに易しいことじゃない、これだけ働くからこれだけのご飯が食べられるんだ、というのを身体が感じるのですね。そうすると、自然と食べ物を大事にする意識が身につきます。

今年はこの稲刈りにこどもたちが大活躍。それぞれの成長に親がびっくりしてしまいました。
8歳の長女は手鎌で、ひと息で稲の束を刈れるようになりました。
6歳の長男は、「とっくり結び」という新しい結び方を覚えたのがとても嬉しくてたくさんの稲藁を次々と束ねてくれました。
4歳の次男は力もついて、束ねた稲を持ち上げて運べるようになりました。
1歳の三男は田んぼの作業に初参加。これまでは母親の背中におんぶされていただけだったのが、周りの仕事を見て覚え、稲刈りや藁束運びを自分からやるようになりました。

家族で汗を流して作ったお米は格別。
その新米を食べる日が待ち遠しいですね。

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昨日、自家製スモークサーモンをつくってみました。
自家製、といってもサーモンはスーパーで買ってきたもの。本当はスーパーでスモークサーモンを探してたんだけれど、やはり田舎のスーパーなだけに、それが置いていない!でも鮮魚コーナーにはおいしそうな刺身用のチリ産サーモンが並んでいました。以前はそういう発想がなかったけれど、「そうか、これスモークしちゃえばいいんだ」と思いつき、チャレンジしてみました。

普段からこんなぜいたくをしているわけではありません。
これは今日の私のバースデーディナーとなるものなのでした。
我が家では1年に一度、誕生日には自分の一番食べたいものをリクエストしてお家でパーティーすることになっています。これまでは、普段あまり口にしないお肉をありがたく頂いたりしていましたが、やはり野菜中心の食生活となってもう数年、徐々に身体も変化して、「お肉を食べたい!」という欲求も薄くなってきたのですね。最近はそれを実感するようになってます。

そこで今年のメニューは「サンドイッチ」!
薪ストーブで焼いた自家製パンに、このスモークサーモンのほか、アボガド、ほたての貝柱、サワークリーム、チーズなど豪華トッピングをそろえたスーパーデラックスなサンドイッチディナーとなりました。今はそのサンドイッチをお腹がはちきれんばかりに食べてもう動けません。こどもたちも異口同音に「こんなおいしいサンドイッチは食べたことが無い!」と超満喫。みんなが幸せなハッピーバースデーでした。

今でこそ自分の誕生日を「幸せだなあ」と感じられるけれど、大学生時代は誕生日が来るのが恐ろしかった。あの頃は東京のマンモス大学に入ったにもかかわらず、ほんとに打ち解けられる友人もいなくて、ましてや一緒に誕生日を祝ってくれる彼女もいない。自分の誕生日が近づくたびに、「今年もひとりだ」と下を向いてしまっていたのですね。なんだか世界に自分がひとりぽっちのような気までしてしまい、クリスマスと並んで誕生日というのが1年で最も恐ろしい日に数えられていた。

あれから20年近くが経って、今日で私は38歳。
年齢を数えると、自分でも信じられないくらい歳をとったもんだなあ、と思う。
30歳を超えたときにはけっこう絶望的なほど、30代に突入してしまったことにショックだった。そしていまや40歳も目の前。しかし、最近は歳をとることが昔ほど嫌ではなくなった。
こどもに最近よく言う口癖が、「大人になるっていいよ」。
大人になったらおいしいお酒が飲める、自分のお金で好きなものを買える、大きなお家だって作れる、車やバイクも運転できるし学校も行かなくていい。楽しいことだらけ!
以前サラリーマンをしていたときには思いつかなかった発想だが、実際、今の生活では毎日好きなことをやって生きている。移住してからというもの、毎日がその連続。そして今や私の身の回りにも、同じように「楽しいこと」を自分の生きる価値の中心においている人がたくさんいるのだ。楽しい時間を重ねていくと、その楽しいことがまた新たな楽しみを発見してくれたり、より奥の深い境地へと入っていけたりする。だからそういう歳を重ねて生きるということは、「歳をとる=より楽しい人生となる」ことを意味するので、歳をとることが嫌ではなくなったのです。

でもこうして楽しみを謳歌していられるのも、ベースに家族というものがあるからでしょうね。愛すべきこどもたちや妻がいてこそ心の安定を約束されているのでしょうね。
誕生日が恐ろしかった若い頃は、「愛」というものがよくわからなくて、異性から好かれることが「愛」だと勘違いしていた。だから彼女がいない=自分は愛されてない、と思い込んでいた。今思うとかっこばかりつけていたそんな勘違いオトコに惚れる女性はやっぱりいるわけがない。

その後、幾多の厳しい恋のレッスンを積み、いやおうも無く歳を重ね、今では少しマシな男になれてるようで、幸いなことにこどもや妻、たくさんの友人にも恵まれている。そして他人との距離がとることができなかった私でも「大好き」といえる人が周りに増えてきた。

以前、私は「愛」の正体がわからず悩んでいたとき、晩年のマザーテレサの前でひざまづいてこう懇願したことがある、「あなたのように他人を愛することのできる人となりたい」。

彼女が万人に捧げた愛とはほど遠いけれども、今では私なりに愛すべき対象が周りにいてくれる。そんなすべての人たちにありがとうを言える年齢になったことにも感謝。歳をとるっていうのはいいもんです。
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 4年目になるメリーモントの畑。最初の2年は近所の方から牛の肥(こえ)をもらってきて土を作っていました。しかしその肥を運ぶのも相当な労働なのです。ここらでは、牛は夏の間は放牧地で草を食べさせ、草が枯れて寒さが厳しい冬の間は牛舎に入れます。そして、翌年の春、暖かくなってくるとまた放牧地へと戻します。牛が牛舎から出たときに、冬の間たまっていた牛舎の中の肥を敷き藁(しきわら)ごと畑に運ぶのですが、まだナマの肥は相当に重く、それをフォークですくって軽トラに積み上げ、何杯も運搬するというのはあまり能率的ではありません。それに、我が家の生活空間における永続的な循環からは外れたところから土のエネルギーを調達するというのは、エネルギーの収支が見えにくくなってしまうので昨年からは牛の肥を使うのはやめました。

 ソフトベジタリアンの私たちにとっては、畑の堆肥も植物性のものがベスト。これまでは食物残渣のずぼら堆肥と人間の肥を使ってきています。それに加えて登場したのが写真の「コンフリー」です。

 コンフリーは多年草で、冬には枯れてしまいますが、生命力の非常に強い根を持っていて、毎年旺盛に葉を茂らせてくれます。窒素分の多いこの葉を刈り取って水に浸しておくととても良質な液肥となります。パーマカルチャーではよく登場する植物ですが、私は今までお目にかかったことはありませんでした。

 メリーモントに移植したこの子(コンフリー)は実は臨時休暇中に初めて訪れた鎌倉のパーマカルチャーガーデンから頂いてきたものです。そのガーデンは海が見える小高い山の上にあって、非常に気持ちのいいところ。仲間数人で借り上げている平屋のおうちが敷地内に建っています。そこに集う彼らはパーマカルチャーの実践者はもとより、画家や料理人、大工や音楽家など、職業はばらばら。ばっちり畑仕事がやりたい人から、土いじりはほとんどノータッチの人まで。老(?)若男女たくさんの人種が集っていました。

 私は、今となってはこの阿蘇でたくさんの仲間に囲まれています。が、元来は仲間・友人という関係をつくるのが苦手分野。それは今でも変わらない体質で、初対面の人と同じ空間にいるだけで息が苦しくなってしまいます。ですから、会ったこともない集団に自分が入っていくというのは、必要に迫られない限り、極力避けたいことなのです。

 自分ひとりでは決して足を踏み入れなかったであろうその場所に私が行くことができたのはひとつは妻と子供たちがいたこと。そしてもうひとつはそこに導いてくれたお友だちがいたこと。そのお友だち、実は私たちがこの夏に阿蘇で企画した親子キャンプに参加してくれた女性。この夏、彼女の娘さんがうちの長女と大の仲良しになったこともあって縁が深くなり、帰省中に遊びに行くことになったのです。人間関係においては私と反対の特性をもつ彼女は人と人とのつながりの中に居場所をもてる人。夏の初めに親子キャンプに参加した彼女は娘さんと一緒にその後九州から沖縄まで、知り合いからまたその知り合いを訪ねるというふうに、まるで神様が用意してくれた虹の橋を渡り歩くように、足元に伸びていく旅の道をエンジョイしていました。

 そして、その彼女に導かれ、鎌倉で出会った彼女の仲間たち。彼らもまた彼女と同じように人のつながりの中に生きていました。お互い旧知の仲のように笑いあい、お腹が空いたら誰かが作ったおいしい料理をつついてまた笑い、おいしい煙を吸ってはまた笑い。それはまるで高校の部室のような空間でした。時間も損得も気にせずに楽しいことを話し、気持ちよくすごす。初めてその場に居た私はやはり生来の気質はぬぐえず、心のガードを外しきれずにいたような気がするけれど、それでもそこの仲間の気持ちよさは格別なものを感じました。

 震災・原発事故以来、多くの人が自主的、またはやむなく住み慣れた地を離れて新しい生活を始めています。それまでの生活に区切りをつけること、新しい移住先を探すこと、家を見つけること、仕事を見つけること、どれもが並大抵の苦労ではありません。そのどれかに踏み切れずにどうしても前に進めなくなってしまうこともあります。そうした中でいちばん大切なものはなんでしょうか。お金?仕事の資格?キャリア? どれを持っていてもそれは道具に過ぎません。いちばん大切なのは、いかなる場所においても自分が歩く道を見つけられる目を心の中に持っていることなのかなあと思います。その道は自分ひとりで開拓するにはやはり限界もあります。いついかなる状況でも自分を中心にして選択できるいくつもの道筋が見えるとき、それは損得抜きに笑いあえる仲間がつくってくれる、彼らとの間に架けられた橋のようなものではないかなと思うのです。

 鎌倉で出会った新しい仲間と導いてくれた彼女が教えてくれたもの。大切なものをこのコンフリーと一緒に持ち帰ってきました。そしてメリーモントにその根を植え、これから大きくひろく育てていこうと思っています。
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東京への帰省と被災地への訪問をした3週間の臨時休暇がおわりました。

久々に阿蘇へ帰ってほっと落ち着いています。
関東・東北に居る間はやはり放射能が気になって落ち着くかんじではありませんでした。
震災以降、ここ阿蘇では避難者を受け入れることで支援をおこなってきたのですが、実際に当地へ行ってみて自分なりの実感を持ち帰れたことは良かったです。

そしてひさしぶりに自分の本業に戻ることができました。

休暇前はまだ暑い夏の空気だったのに、帰ってきたメリーモントはすっかり秋。
空気がひんやり冷たくて、空は澄んでいます。
たくさんの栗が地面に落ちていて、「やっぱり山が大好き」な息子が楽しくそれを集めています。

「やっぱり山が大好き」な私も楽しく丸太いじり。
今日はひとつめのドーマーの骨組みが完成しました。
ドーマーとは、屋根から突き出た小さな空間とその窓のこと。
このドーマーはロフトの南西側にある私たち夫婦の寝室となるスペースに設けられたもの。

何もなかったところにこうしてひとつひとつ空間ができあがっていきます。
自分が思い描いていた夢が自分の手でひとつひとつ形になってゆくのは何物にも代えがたい幸せです。


2011.10.04 念(おも)う

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3月11日の震災から半年が経って、私はようやく被災の地に行くことができました。

ここは南三陸町。
海に面した町がひとつ、まるごと廃墟になっていました。
車を降りて道路に立ち、海と反対の方向に目を向けると遠くの山まで視界を遮るものがないほど、全てが無くなってしまってました。あるのは地面に張り付いたコンクリートの基礎だけ。

被災直後は瓦礫の山だったこの場所は、今は多くの瓦礫が重機によって除かれ、1箇所にまとめられてそれが巨大なごみの山となっています。人影はあまりなく、数台の大型ショベルカーがまだ片付いていない瓦礫を砕きながらそれをダンプカーに乗せて運ぶ作業をしていました。ボランティアと思える人々もほとんどこの場所にはおらず、今は仮設住宅などでの生活支援などを中心に活動されているようでした。

道路は信号も復旧して多くの一般車が当たり前のように通行し、重機が瓦礫を砕くハンマー音が絶え間なく鳴り響いていました。

それが9月末の暖かな青い空の下。
この地に来るのが初めての私にとってはここが街であったことを想像するのが難しかった。

私は他人に対する感受性がそれほど高いほうではない。
セラピストなんていう仕事をしていたけれども、万人に対して共感や愛をもつということにも自信がない。
だから正直、被災地を訪れるということも躊躇があった。
だって、悲しみを抱えた人に向き合ったときに、一番怖いのは、自分の中にその人たちに対する共感が起こらないかもしれないこと。

そんな不安を胸に抱いていた私にとって、被災された方の姿がこの場所でほとんど目に入らなかったことは正直なところ、少々安堵の感を覚えてしまった。

三陸地方というのはリアス海岸になっている。海沿いの道は大きくアップダウンを繰り返して続いていく。道が下り、海に近づくと家々が増えてくる。この地方の人にとっては海が生活の場であり、仕事の場であったことが車で移動するととてもわかりやすく実感できる。そして低い沿岸部を通りすぎて道がまた上りだすと山に入り、家が少なくなるというくり返し。

ただ、悲しいことに道が下りだし、海が見えてくるとその度に廃墟となった集落を目にすることになった。
山、海、廃墟、山、海、廃墟の延々たる繰り返し。
次第に私の心も疲れてきた。

罪悪感を感じながら、人に見られないように手早く写真を何枚か撮って、結局私は何もすることもなくその日は被災地を離れた。

その翌日、なぜか朝からめまいがした。めまいなど普段まったく経験がないので車酔いかなと思ったりしたけど、自分で運転していて酔ったことなどもない。おかしいと思いながらも朝から車を運転していると、昼過ぎからは頭痛と吐き気が重なり、車の中で寝込むことになってしまった。

旅の疲れ?もしかして急性被曝?いろいろ考えたけれど、どうも腑に落ちない。
いろいろ考えながら、ふと、津波で亡くなった誰かが私に乗り込んできたのではないかと思った。
私は生きている人間に対する共感性も弱ければ、まして霊感などというものもまったくない。
そして、死後の世界や魂というものもどちらかというと懐疑的なほうだ。

けれど、体調悪化のタイミングやふだん現れない症状なんかを考えるとそれが一番考えられることだった。
それから私は路肩に停めた運転席に座ったまま、静かに祈った。
前日に訪れた廃墟の街を思い出し、その中で生きていたひとりひとりの命、彼らが最後の瞬間に襲われた津波の恐怖、圧倒的な圧力に飲み込まれてごみのようにさらわれていった人々。思える限りの想像で彼らのことをイメージした。
そして、この自分に何かを訴えてか一緒についてきたその中のひとり(もしくは何人か)に話しかけてみた。
何も返答はなかったけれど、最後にはどうか成仏してくださいとお願いした。

30分の祈りの後、頭痛と吐き気、めまいのすべてが和らいで消えていた。

この不思議な体験が、今回私が経験すべきことの全てだった気がする。

「念」という字を使い、「念(おも)う」という言葉がある。
「祈り」というと、何か厳かで格式高いもののような気がする。特定宗教信仰のない私にとっては他人に言うとちょっと気恥ずかしいような言葉。けれど、亡くなった人のことを「おもう」というと、敷居が低く感じる。
そして心をこめてその魂の存在を「念(おも)う」ことは私にもできる気がする。

被災されて今もなお生きて大変な思いをなさっている方はたくさんいる。
しかし自分にとってどんなことから彼らのために始めたらいいのか、それがこの旅でわかった。
一日のうち、ひとりで静かになれるほんの短い時間、成仏への手助けを必要とするまだ数多い魂を念(おも)うこと。



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