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til hole

先日、近所の家で家の増築をやっていました。クレーンでの建前を終えたあとで、建て主さんや大工さんとちょっとお話をしてきました。私がチェーンブロックやらでいろいろと苦労しながら建前をやっていると話すと、「昔はこれで合掌(づくりの構造材)をあげとったよ」という道具を貸してくれることになりました。それが「チルホール」という道具です。

写真の真ん中にあるのがそれで、要は手動のウインチみたいなものですが、巻き上げ式のウインチと異なるのは、本体にワイヤーが突き抜けている点です。レバーを動かすとワイヤーを少しずつ送っていくので、その長さ分だけいくらでも引っ張ることができます。今使っているチェーンブロックは有効動作長が3メートル弱なので、梁をあげるには長さが足りません。

今日はこのチルホールを使って柱と梁をあげました。
なんと子供ひとりでも重い梁をあげることができたのです。子供に梁を上げてもらい、私はほぞを合わせるという作業で極めてスムーズに組み上げができました。

そして、今日あげた柱で1階の構造柱の15本すべてが立て終わりました!

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2011.02.23 道具マニア?
372XP x-torq


昔から私は機械などのモノが大好きでした。小学生の頃、ファミコンが登場して爆発的ブームだったのを横目に、私がおこづかいをすべて投じて熱をあげていたのが競技用のラジコンでした。その対象が今は家づくりのための道具にシフトしているのでしょう。家づくりには実に多くの道具が要ります。全部がぜんぶ「必要」ではないのですが、便利に工夫されたモノや、のこぎりに代わる電動マルノコのように、桁違いなパワーをもつ動力工具がたくさんあります。3年前に移住してきた当初は、忙しい都会のペースからようやく抜け出し、あえてスローな作業を好んでいた面もありますが、家づくりという大仕事を始めると、スローだけを愉しんでいるというわけにもいかなくなります。今はマイウェイながら出来るだけピッチをあげて作業をすすめようという時期にあります。

ログハウスを建てるのにはたくさんの道具がいります。
古き良き時代のログビルダーはその刻みをすべて斧などの(動力なしの)手道具でおこなっていました。現代ではこのチェンソーが欠かせません。チェンソーは、少ない燃料に比して圧倒的な仕事力があります。仕事力が大きいということは、すなわち仕事時間が短縮されます。この化石燃料と現代工具の恩恵があるからこそ、私はひとりでこの大きな家を作ることにチャレンジができるわけです。

現在、チェンソーは仕事に応じて使い分けるために4台保有しています。そのうち、一番大きなものは排気量が70ccを超え、丸太を製材するときに使います。丸太を繊維に沿って縦に切ることを「縦引き」や「リッピング」といいます。繊維に対して垂直方向に切るときに比べて何倍ものストレスがかかるので、チェンソーメーカーとしては一般的に90cc以上の最大クラスのチェンソーを使うように推奨していますが、私の場合、対象の木が柔らかい杉で、直径30センチ程度のものくらいしか挽かないのでこれで十分です。

先日、その縦引き用の一番大きいチェンソーの具合があまりよくないので、遠方の腕利きのチェンソー屋さんに診てもらいました。すると、ピストンが相当磨耗していて、修理に最低6万円以上、もしかすると10万円近くになるかもしれないとのこと。しかも、そのとき初めて知ったのですが、オークションで中古購入したこのチェンソーは「並行輸入品」だったとのこと。チェンソーの並行輸入品の場合、外見は同じでも、内部に使われているパーツが少しずつ異なり、そのため、修理に要する部品が国内で手に入らないこともあるのです。それを聞いてさすがに今回は修理を断念。

そこで新しく同じクラスのチェンソーを買い変えることになりました。
しかし、このクラスの国内正規品はディスカウントでも20万円以上します。さすがに手がでません。「並行輸入品」はその半額近くで手に入ります。が、問題は故障したときに直しがきくかどうかという点です。そこでネットで調べて出会ったのが、アメリカからの並行輸入品を販売している方でした。私が使っているのはハスクバーナというスウェーデン製のチェンソーで、これは世界中で愛用されています。欧米ではその人気が高く、特にログビルディング界ではNo1の人気です。欧米では排ガスや環境問題に対する意識が高く、本国スウェーデンやその他欧米諸国で販売されている最新モデルは、「環境エンジン」と謳ったもので、窒素酸化物などの排ガスを減少させ、燃費もアップしています。しかし同時期の国内モデルはその導入がどういうわけだか1年ほど遅れています。

今回私は日本国内ではまだ販売されていないアメリカの最新モデルを購入することにしました。購入後の修理ができるかどうかは一番気になるところだったので、くどいほどメールでやりとりをしていろいろと確認させていただきました。パーツは国内で流通していないものはアメリカから10日間ほどで手に入れることができて、いざというときの修理もその業者の方が引き受けてくださるということで決断。

昨日、その試運転をしたところです。さすがに新品の最新モデル。車で言えばフェラーリでしょうか。今までエンジンのスタートにひどいときは何十分も費やしていたのが、一発で気持ちよく始動!同じ排気量なのに古い型よりもパワーが全然違います。これでまた家作りも加速していきそうです!
so far

今日は朝からいい天気でした。

昨日のつづきの作業もきもちよくはじめられました。昨日は梁をあげて、一方の方杖を入れるところまで。チェーンブロックで宙吊り状態のまま一夜が過ぎました。今日はもう一方に柱をたてて方杖も組み入れながらほぞに入れ込む作業。文章では伝えづらいのですが、昨日よりも難しい作業でした。まずは下に寝かせてある太い丸太の柱を真っ直ぐの状態に立てるという、ただそれだけのことが最も難題でした。いろんな方向からロープで引っ張りながら引き起こしていくのですが、ちょっと油断するとバランスを崩してくるりんと回ってしまいます。そこで、そばで見ていた息子がヘルプにきてくれました。5歳の息子にロープを引っ張ってもらいながらさらに奮闘。しかしどうもうまいことあがっていかない(汗)。

そこに見かねた親父もヘルプに参加。そしてようやくのこと柱がまっすぐにたちあがりました。

その後は何度も部材の長さを微調整しながら柱、梁、方杖の一組をくみあげました。
これまでのところ、写真のように、柱が14本立ち、中央にも太い梁が2本加わり、なかなか様になってきました。

今はひと段落するたびに家の空間を感じています。
あらたに立ち上げた柱や梁を眺めながら少しずつ変化し成長していく空間とともに間取りのイメージをふくらませていきます。設計上の間取りは決まっていますが、実際に作りあがっていく構造体は新しいインスピレーションを与えてくれます。それを家に持ち帰り、妻と新しいイメージを話し合ったりするのもまた至福の時間です。

こうしてゆっくりと時間をかけて成長し変化していく我が家はまるでこどもを育てているかのようですね。

working alone

前回の大黒柱の組み上げには、近くの仲間3人に手伝ってもらいました。その仲間たちは柱立てのときにも来てもらった、気兼ねのすることない、とてもいい男達です。その大黒柱の組み上げ、あげる部材は3つ(柱と梁と方杖)だけだったのに、実は半日も時間を費やしてしまいました。私の当初の予想ではけっこうすんなりとあげられるはずだったのに、なかなか難しい組み上げでした。実際、4つのほぞを同時に組み込んでいかなくてはいけないので難易度は高かったのですが、それにしてもうまく進みませんでした。これはひとえに私のプランミスでした。

初回の柱立てが思いのほかすんなりと進んだので(今回もまあなんとかうまくいくでしょう)みたいな油断があったのだと反省。それぞれに忙しい合間に集まってくれた仲間にも申し訳ない気持ちになりました。

大黒柱を組み終えてからは同じような構造体を西側にもつくるために部材を刻んでいました。そして今日その刻みが終わり、組み上げにかかりました。

前回の反省にたち、今日は「ひとりで」チャレンジ!
前回男4人で苦労した組み上げをひとりでやってみることにしました。バランスを崩したりしても、「ちょっとそこもってて!」なんて甘えることもできません。だからマンパワーに頼れない分、周到に準備しなくてはなりません。自分の今もてる道具を総動員し、それらをフルに駆使する計画と計算をおこないました。今回はマッスルではなく、ブレインの勝負です。

一番重い梁はチェーンブロックで吊り上げ、ユンボはあくまでも補助的に使い、ロープで各所を固定しながらさらに別方向からハンドウインチでほぞに入れ込んでいく。最初から最後までひとり舞台だったけど、最終的にはこれがけっこううまくいった。なぜかというと、やはりムリをしていないから。ムリのできない状況で可能な限り最善の準備をして実行。結局体力の消耗も少なく、なにより安全だった。人の手というのは自由が利いて便利だけど不安定なものでもある。相手が自分の体重の何倍もあるのだから、いざというときには怪物に変身してしまう怖さがある。

今日のチャレンジ、自分としては100点の出来。でも実はまだ柱を入れ込んでいないんですね。明日はどうやってこの続きをやろうかな。明日も自分に100点をあげられるように知恵を絞っていこう。なによりこの知恵絞りが面白いのだ。
daikokubasira.jpg

柱立てが無事終わり、次の1週間はこの柱とそこに続く梁、方杖(ほうづえ)の部材を刻んでいました。
そして前回アップのニワトリさんを頂いたその日に、再び仲間に集まってもらい、その組み上げをしました。

この柱、南北軸ではちょうど家の中心、東西軸ではやや東に偏るものの、もっとも家の中心に近い柱となります。すなわち、これが我が家の大黒柱。

古くからある日本の木造建築では家の中心にある柱が屋根の最上部である棟を支える構造上もっとも重要な役割を果たしていました。よっていちばん太くて強い柱を使うことが通例でした。しかし、現代建築ではこの大黒柱がないお家が多くなりました。それは、住宅建築の工法が変わったからです。欧米の2×4(ツーバーフォー)工法の輸入や、構造体を補強する金物の使用などにより、中心の柱が全体を支える構造でなくなってきたのです。

我が家の場合、ログハウスといっても、俗に言うポスト&ビームで、日本の在来工法に近い構造をしています。太い柱と梁などが躯体(くたい)となります。この大黒柱はリビングとダイニングの間に位置し、この家に住む人間が一番目にする存在となります。よっていちばん木肌がきれいで太く、重厚なものを選びました。

こうして引き起こし、その場にそびえたつと、すでにそれにふさわしい風格をかもし出しています。この大黒柱がこの家の守り神となり、いつまでも私達家族をひとつにまとめて見守ってくれるように祈る気持ちです。
eat life

昨日、私の人生で初めてニワトリを殺して食べました。
37年間生きてきて、これまで何千回と鶏肉料理を食べてきて、なんと初めての経験です。

数日前、近所のおばあちゃんが、卵を産まなくなった鶏がいるんだけど食べるんだったらやるよ、と言ってくれたのです。その時、「ついにこのときが来たか」と思いました。

現代社会では、スーパーに行けばすでに商品と化した様々な食材が手に入ります。野菜は土がきれいに落とされてひとつひとつきれいにビニールがかぶせられ、肉は清潔な白いトレーにのせられてすぐに調理できるようにスライスされています。そこには本来、そのものがもつ「いのち」を感じることはありません。大人であっても、例えば目の前のトレーにのっている鶏肉がどんな風に生まれて育ち、どこでどんな風に殺されて肉にされたのかをリアルに想像できる人は少ないでしょう。なぜかといえば、実際に私達がそれを目にすることがほとんんどないからです。

昔、私がインドにいた頃のこと。毎日ボランティアで通っていた施設の近くに小さな市場がありました。田舎の小さな町でしたが、そこは活気に満ちていていろんなものが売られていました。その中に肉屋もありました。インドの肉屋というのは、ある種の肉の専門店となっています。この店では羊肉だけ、あそこの店では鶏だけ、という具合に。そして売られている肉はその日にその店で殺して解体したものを並べているのです。その証に羊屋では切断されたその頭が店先に並べられ、イスラム教徒の牛肉屋では吊り下がっている大きな肉の塊がまだ痙攣をおこしてわずかに震えていたりしました。

日本から来た私は、そこで初めて鶏の絞める様子を見ました。たくさんの鶏がひとりの男の手でまったく手際よく次々と処理されていっていました。私はそれを食い入るように1時間以上もそばで見つめていました。

よく言われることですが、インド社会には「生」と「死」がいつも日常に存在していると。これは宗教的な意味でも、社会風俗的な意味でもいえることですが、この市場の光景のように、生きているものを殺してそれを口に入れるという単純な事実を当たり前に日常に経験していることもその言われのひとつであるのでしょう。

あれから十数年経ち、私は家族をもって子ども持ち、次の世代を育てていく仕事を担う中で、食の自給を通じて自分を取り巻くいのちのつながりを実体験できる生活の必要性を強く感じるようになってきました。

そのために自給可能な空間や環境を求めて移住してきたのです。これまで少しずつ野菜や米の栽培にチャレンジしてきました。当然、肉として頂く生き物もこれから養っていくつもりでした。ですから、その時がきたらきちんと自分で処理できるように技術を身につけておかなくてはならないと思っていました。

そして昨日という日がきたのでした。

集まった友人たちの子ども達も取り巻く中で一羽のニワトリが殺され、肉になりました。
子どもたちにとってはやはり残酷に映ったのでしょう。「かわいそう」「見ていられない」と言っていました。けれどみんながその場を離れずにいました。そしてその夜の晩餐では、ニワトリさんの命に手を合わせてチキンカレーをとてもおいしく頂きました。

大人である私にとってもひとつの命を取るという行為はとても重いものでした。こどもと同じく基本は「かわいそう」です。でもこの当然の感情がとてもとても大切なことと思います。命を取られることはかわいそう、だから大事に食べなくちゃ、無駄にしちゃいけない。さらにはそうやって生かされている自分の命も大切にしなくちゃ、と思いたい。

私にとって、「食の自給」に向けた道のりの、大きなひとつの関所を越えた昨日のできごとでした。

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