2008.06.26 友より
桃


とても大切な友人からとても大切な桃が送られてきました。

小粒だけど身がしっかりつまって、正直な味のするおいしい桃です。
ひとつひとつ丁寧に包んでくれました。たくさん包んでくれました。
子育てで忙しいだろうに、遠くに行った私たちのために。
妻はその包みをひとつひとつ開きながら
そのあたたかさに涙をうかべていました。

その優しさは家族みんなに伝わりました。
その夜、子供達はみんな笑顔で桃をほおばりました。
うれしいうれしい贈り物でした。
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2008.06.26 大豆
大豆 2


先日、梅雨の合間に大豆を播きました。
主に来年の味噌仕込み用です。
初めての大豆の種まきだったので、おおいに不安をかかえながら数日間。

しっかりがっしり芽をだしました。
雨の水分をたっぷり吸って大きくふくらんだその頭を強く支える身体。
土を押し分けて出てくる感動的な力強さ。

料理家の辰巳芳子さんが大豆100粒運動を推進されています。
こどもたちに食の大切さ、命の尊さを伝えるために。
それが大豆である理由は日本の食文化にとって重要であることがありましょうが、この姿の力強さは実際に自分の手にかければ誰しも響くものがあるからでしょう。
2008.06.19 エコロジー
布おむつ派


我が家の物干し竿に毎日並ぶ白布たち。
我が家は布おむつ派です。

サラリーマンをやめてからめっきり家事にかける時間が長くなり、あらたに気づくことが多くなった。
しかも色んな発見がある。

紙おむつ全盛の時代、国内でも90%が紙おむつ派である。我が家でも以前は100%紙おむつ派だった。
布に切り替えたのは私が仕事を辞めた1年前から。今の次男が生まれてからだ。以前から紙おむつの値段の高さは気になっていたものの、汚れたら丸めてポイッの簡便さには勝てなかった。というよりひとりで子育てと家事の重荷を背負っていた妻にとってはそれ以上の仕事を増やすことはとうていできなかった。

現在、布派を選ぶ理由の過半数は環境志向によるものだというが、切り替え理由の決定打は経済性。紙おむつは1枚30円ほどだが、おしっこの度に変えて1日に10枚消費すると仮定。一ヶ月に300枚となると300×30で9000円!それがひとりでなく2人目ともなると家計に与えるストレスは大きくなる。以前のような収入がなくなってからは切り替えは必然だった。

経済性を後押しするように、このおむつたちはラッキーな頂き物。以前住んでいた家の近所の仲良しさんが、第2子の誕生と共に反対に紙に切り替えるというのでそれまで使っていたものをごっそり譲ってくれたのだ。
使い始めは布のたたみ方や当て方に戸惑っていたものの、いまではもう慣れたもの。やっかいなうんちの処理も他の家事と同様に当たり前の作業としてすすいっと手が動くようになった。

しかしそのうんちの処理でひともめしたこともある。
私はエコロジストを標榜しつつもずぼらなので、布についたうんちを風呂場で子供のおしりを洗うときに一緒に流していたのである。それを見た妻はけっこうお怒り。
このあたりは下水は整備されていない。というか、整備する必要がない。住んでいる人間の数=排水の量に比べて、川のバクテリアの量が圧倒的に勝っているため、川へ流れ込んでも問題ないようなのだ。驚くことに排水の流れるその川にヤマメがすいすいと気持ちよく泳いでいるのだから。
かといって、「そのまま川を少しでも汚すことが分かっていながらなんで流すのよ!」といわれても反論に強さは無い。

負けを認めてそれからはぼっとん便所へ。しかしこの汲み取りもひと月に1回、バキュームカーのお兄ちゃんに3000円ほども支払っているのだ。経費もさることながら、その行方も気になる。だから一度聞いてみた。そしたら、昔はそれを肥えとして農家がつかっていたけれど、食生活が変わって、今のそれは化学物質まみれで、もし畑に播いたらとたんに野菜が枯れてしまうというのだ。びっくり。だからたくさんのエネルギーを使って焼却処分。なんか愚かな循環。

それでも私は嬉しくなった。コンポストトイレへの情熱が強さを増したからである。
今すんでいる借家ではぼっとんを壊してコンポスト化するわけにはいかないので、来年建設着工予定の自宅にはとびっきり素敵なコンポストトイレをつくろう。
命の循環を支える素敵な仕組み、その話はまた次回ということで。

こうして我が家の白布たちは梅雨の晴れ間に今日もきもちよさそうにたなびいておりました。
2008.06.12 散歩
散歩


しばらく帰省しておりました。

阿蘇に帰ってきて久しぶりの散歩です。
こども3人とのぜいたくな時間。今日は自転車も使わず、ゆっくり歩きます。
「歩く」ことが目的といえば目的。だから寄り道が楽しい。ゴールがあったらそれはそれでいい。
けれどゴールが目的だったら寄り道が楽しくなくなっちゃう。これはこれまでの病院の仕事の中でも感じ続けたこと。

僕は障害をもつこどもの成長を助ける仕事をしてきた。仕事に対してはどうしても結果を求められる。その子が「いつ」までに「○○ができるようになる」こと。その重圧はいつもセラピストにのしかかってくる。

子育てというのは障害をもっていても、もっていなくてもおんなじだと思っている。僕の基本理念は子供を「育てる」のではなく、子供が「(自分で)育つ力」を育てることだと思っている。生き物はみんな生まれつき与えられた力をもっている。自分の命を育てる力。自分の命を輝かせる力。おとなたちはそれを信じてその子の命が一番輝くように見守っているだけでいい。

自分のこどもたちを見ていてもそれを感じるし、大人になって社会の荒波に苦しんでいるかつてのこどもたちを見てもそう感じる。
どうしてみんなこどものままでいられないんだろう。無邪気に寄り道に夢中になれたこどものままでいられたらそんなに苦しんだりしなくていいのに。

今日の散歩はほんとに贅沢だった。
寄り道が楽しいんだもの。
草を分けて夢中で摘んだ野いちご。それも貯めたりしないでそのまんま口に入って命になる。
目の前にある素敵なものに誘われて歩き疲れて眠り、気づいたらお腹いっぱいで一日が終わっている、そんな風な生き方ができたらいいな。この時代にあるからこそ余計にそう思う。

ちょっと疲れたおとなのみなさん、疲れすぎる前に散歩しましょう。ゴールは決めずにね。ゆっくり歩くほど、足元の素敵な野いちごがたくさん見えてきます。たくさんたくさん食べればこどものときに輝いていた命の光がまた元気になるはず。

野いちご
2008.06.03 米づくり
田植え


「主食の自給」
これが我が家にとっては難題です。

ここ阿蘇一帯の麓は水稲の栽培にはほんとうに恵まれた環境です。
カルデラの山々が蓄えた伏流水があちこちから清水を湧き出しています。
やはり日本の文化というのはこうして自然がもたらす食への恩恵を軸に発展してきたんだなあと実感します。

しかし我が家は阿蘇の山中でも最も高地に位置するのでその水の恩恵を受けることができません。野菜は温度管理さえできれば十分育てられるのですが、米を育てるには豊富な水が必要です。
考えているのが次の選択肢。

①家から離れた場所に田んぼを借りる(または買う)
②自分の地所に雨水利用の農業用溜池を作り、田んぼをつくる
③水稲でなく陸稲をつくる

それぞれが面白いチャレンジです。新しいことに興味が沸いてそれにトライすることはその過程こそが愉しみです。

今回は妻の縁で水田を貸していただける方にめぐりあい、苗の手植えを体験しました。
田植え機全盛の現代にあって、あえて手作業を希望する私たちに家族総出でつきあって指導してくださいました。感謝感謝です。
「除草剤はいっぺんだけ撒かせてもらうよ」と言われて「抜かせてください!」とリクエスト申し上げても笑顔で了承してくれました。阿蘇の大地のように広いこころのご家族でした。